アクロバット思索のための読書回想記

思想体系やジャンルをアクロバットに繋いで無理やりマネタイズします

大切なことは音楽が教えてくれた

"悪いことは重なるなあ 苦しい日々は続くのだ"

 

初期の名作「くせのうた」の中で歌ったのは、今やJPOPスターの星野源だ。彼は自身のバンドを解散して数年ほど、しばしばフォーキーでメランコリックな曲調・歌詞を用いて、東京に垂れ込める鈍色の雲のようなモヤモヤを表現していた。

 

そうだ。僕たち身の回りで起こるミクロな問題から始まり世界規模のマクロな社内課題まで、いきなり目の前の霧が晴れるように自動的に好転する様な展開は稀であり、悪いことは重なり、苦しい日々は明日の朝起きても残念ながら続くのだ。

 

それはまるで、短調で始まった曲(「くせのうたは長調」だけどね)はポピュラーな音楽理論で進行すれば、AメロもBメロもサビも、転調したサビに入ってもマイナーコードが全体の雰囲気を独占している様に。

 

僕は20代前半、誰の目にも留まることのない面白味も無い"tangled up in blue"(2011年6月号廃刊となった音楽雑誌SNOOZERのサブタイトルだ)の時期があった。

思えばその頃、自分が知覚する行き詰まり感満載さを声にしてくれているミュージシャンの暗い歌ばかりを聴き、耽美的な絶望リキッドで、実家の自室をひたひたに充していた。例えば、くるり。例えば、RadioheadRadioheadにおいてはフロントマンThom Yorkeのインタビューを組み込んだ分厚いバンドヒストリー本に没頭し稀代の天才であるThomの苦悩に勝手に共感していた。いやぁ恥ずかしい。

 

でもその推し活は今思えば、恥一色ではなく、僕が音楽を通して大切なことに気づくキッカケとなっていた。何故なら彼らは、単にブルーを心任せに歌うだけのアーティストではなく音楽的教養を身につけた上で感情をそこにぶち撒けるハイブリッドな天才だったからだ。

彼らの言動や表現活動、ルーツミュージックの紹介を受けて、僕は否応なくその音楽的教養のコアである、音楽理論にも興味を向けていった。

 

音楽理論については、学も無い一般人のくせに変態的な興味を抱く自分の様な人間が至極少ないことを自覚しているので、詳説を省く。

僕は和音が大好きで、そこから人生訓として学び取り大切にしているポイントは片手で数えられる。

 

たとえば単体の和音について。

"Aメジャー"など特定のコードがあるとしてそれを置き換えることのできる代理コードという理論が必ず存在している。

我々の半生が今日に至るまで、劇的な違いは無かったかも知れないが実は他のシナリオがあり得たこと、この先もあり得ることを示唆している。

 

たとえば和音の進行について。

起立・礼・着席のピアノで有名なドミナントサブドミナントドミナントドミナントとは日本語で支配的とかを意味し、その曲を構成する最重要な和音となる。最終的にドミナントに戻ることにより曲は構造を持ち、帰着する安心感でより情緒的に訴求する。

我々はみな、旅に出たくなりそして家に帰りたくなる。

 

たとえば調について。

マイナーからメジャーに移行するのも理論的には問題ない。キーの転調も何度上か下かの規定はあるものの基本的には自由だ。音楽理論を用いるのはクリエイティブじゃない?天才の所業じゃない?とんでもない。胸を打つ様なクリエイティブは必ず(それが未だ理論化されていなくても)ある美しい黄金律に則っているから美しいのだ。メチャクチャの中にバランスがある、絵画だってそうだろ。

太陽や月、星座の動き、水の流れ。科学の話を持ち出すまでもなく、万物は創造した誰かの指揮のもとある旋律でオーケストレーションされている。

 

我々の自由を縛り付けているのは、勝手に自分で自分に巻きつけた思い込みというロープだ。

 

少しはタイトルの意味するところに腹落ちして頂けたなら嬉しい。

 

こんなふうに、人生も音楽もモノ書きも世の中の大凡の事柄には通底する美しい黄金律があり、

音楽理論はそれを気づかせる人生哲学のひとつだということだ。

序文

ブログタイトルの通りだ。僕たちには読書が足りない、ムダな思索が足りない。

タイパもコスパも意に介さない、Stable DiffusionなどのAIから鼻で笑われるような散文的な言動が人間らしさを構成する残されたラストリゾートのひとつになってくる。

 

これは、筆者StreetSpiritが人間らしさを取り戻すための(&人間らしい生活を送るための経済をアフィリエイトで自立的に行うまでの)アーカイブなのである。